『 なぜヒロシマに帰って来たのか? 中編 』
移転しました。
前回の続きです
「なぜ広島に帰って来たのか?」
3つ目の理由は
『世界で1番希望を与えられることが
できるのがヒロシマだと思うから』
日本一周中に気付いたら
アメリカにいたことが
大きなきっかけでした
(なぜアメリカにいたのかはおいおい)
アメリカには東京の人と一緒に行ったのですが
東京と広島では反応がぜんぜん違い
森に住むネイティブアメリカの人達でさえも
“原爆のヒロシマから?”と言うほど
海外での知名度は高く
また「広島から来ました」というと
“日本語”で「ごめんなさい。 許してください。」
と言う人が1人や2人じゃなかったことが衝撃的で
広島のことを思ってくれていることは
うれしかったのですが、複雑な気分で
“ヒロシマってこんなところがいいよね”とか
“ヒロシマでこんな素敵な出逢いがあった” とか
“もう1度行きたい”
と言ってもらえるような都市にしたい!!
と思うようになりました。
それは世界の人の捉え方が被爆都市ヒロシマであって
僕たちが考えている平和都市広島ではなかったから。
またイラクに派遣されていた元米兵の方が
“ 世界で1番絶望を経験したヒロシマだからこそ
世界で1番希望を与えれることが出来る”
と話してくれたのが印象的で
世界の多くの人が知る都市 ヒロシマ
同じことをするのも広島でするのと、
他でするのでは意味が全然違うと
肌で感じ広島に戻ってくることにしました。
原爆で焼け野原になり
赤と黒と茶色しかない
地獄みたいだった広島が
緑豊かで、
原爆を落としたアメリカの人とも
仲良く暮らしている街になれば
今戦争している国の人達にも
砂漠で大変な生活をしている人たちにも
勇気をあたえられるのでは
そのためには原爆のことを知るということは
大切なことなので
というイベントに参加しに行ってきました
シンガーソングヒッチハイカー
十輝くんのライブから始まり
ドキュメンタリー映画
“キャノンハーシー「ヒロシマ」」へ
の上映があり
被爆3世代
女性たちとの対話セッションがありました。
印象に残ったのは
被爆二世の朋子さんの話。
親が被爆にあってますが、朋子さんは
実際に原爆、戦争を体験しておらず
“ 親も当時のことを語ろうとはしない”
“平和教育があまりにも
近すぎて実感がわかない ”
そんな朋子さんが大人になった時に
出逢ったのが
ジョン・ハーシの「ヒロシマ」。 という本で
この本は原爆投下の翌年
1946年(昭和21年)8月31日、
米国の雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、
大きな反響を呼んだもので
米国のジャーナリスト
ジョン・ハーシー氏が、
広島の牧師、医師、事務員など
6人の被爆者を取材した記事で
被爆体験や当時の救護活動が克明に記され、
一般の人たちが無差別に犠牲となる
原爆の恐ろしさを訴えています。
これを読んで朋子さんは衝撃を受け
この時初めて原爆、戦争が
ものすごく悲惨だったことを知り
それが自分のなかの思いに火をつけ、
さまざまな活動を始めたのだと。
“記憶の意味”
原爆投下から71年目になり
被爆者の平均年齢が80歳を超える現在
どう記憶をつないでいくかが課題で
みんなでどうしていくか考え、実践し
同じ悲劇を繰り返さず
みんなが命を大切に生きていける
未来を創っていければと思っています
長い文章読んでくれてありがとうございます
『 なぜヒロシマに帰って来たのか? 後編 』
はいずれ書くので乞うご期待あれ~(^o^)
三十路少年の紅(こう)の
応援よろしくお願いしま~す(^o^)